個性的事実の因果的説明

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」 (岩波文庫)

われわれが追求するのは、歴史的な、ということはつまり、その特性において意義のある、現象の認識にほかならない。そのさい決定的なのは、かぎりなく豊かな現象のかぎりある部分だけに意義がある、という前提に立って初めて個性的な現象の認識という思想が、およそ論理的に意味を持つというとこである。われわれ、個性的な事実の因果的説明は、およそいかにして可能か、という問いまえにしては、この世に生起することがあらにかんするすべての「法則」の、考えられるかぎり包括的な知識を携えて臨んだとしても、その問いに答えられず、途方に暮れるばかりであろう、─というのは、実在からごく微細な断片を取り出すとしても、それを叙述することからしてすでに、遺漏なく完遂できるとはとうてい考えられない。なんらかの出来事を規定している原因の数と種類は、じっさいつねに無限にあり、そのうちの一部分を、それだけが考慮に値するとして選び出すための標識[メルクマール]は、事物そのものに内在しているわけではない。無数の個別的知覚にかんする「存在判断」の混沌、これが、実在を真面目に「無前提的」に認識しようとする企てが達成する唯一の成果であろう。しかも、そうした成果でさえ、たんに表面上可能と見えるにすぎない。というのは、どんな個別的知覚の実在も、いっそう立ち入って見ると、じっさいつねに、かぎりなく多いここの構成部分を呈示し、これらは、知覚判断としてもれなく言表し尽くすことができないからである。こうした混沌に秩序をもたらすのは、いかなるばあいにももっぱら、個性的実在の一部分のみが、われわれが当の実在に接近するさいの文化価値理念に関係しているがゆえに、われわれの関心を引き、われわれにたいして意義をもつ、という事情である。それゆえ、常に無限に多様な個別現象の特定の側面、すなわち、われわれが一般的な文化意義を認める側面のみが、知るに値し、それのみが因果的説明の対象となるのである。この因果的説明そのものも、これまた同一の現象を呈示する。すなわち、なんらかの具体的現象を、その十全な現実性においてもれなく因果的に遡及することは、じっさい上不可能なだけでなく、まったく無意味でもある。われわれは、個々のばあいに、ある出来事の「本質的」な構成部分が帰属されるべき原因だけを、つかみ出す。ある現象の個性が問題とされるばあい、因果問題とは、法則を探求することではなく、具体的な因果連関を求めることである。当の現象を、いかなる定式に、その一凡例として下属させるか、という問題ではなく、当の現象が、結果として、いかなる個性的布置連関に帰属されるべきか、という問題である。つまり、それは、帰属の問題である。ある「文化現象」─われわれの学科の方法論においてすでにときとして用いられ、いまや論理学において正確に定式化され、普通に使われるようになっている述語を適用すれば「歴史的個体」─の因果的説明が問題となるばあいにはいつでも、因果の法則にかんする知識は、研究の目的ではなく、たんに手段にすぎない。そうした法則にかんする知識は、ある現象の、個性において意義のある構成部分を、具体的原因に因果的に帰属するさい、そうした因果帰属を可能とし、容易にしてくれる。そうした効用があるばあい、またそのばあいにかぎって、法則にかんする知識は、個性的な連関の認識にとって価値がある。そして、当の法則が「一般的」すなわち抽象的になればなるほど、そうした法則にかんする知識は、個性的現象の因果帰属への欲求にとって、また同時に、文化現象の意義の理解にとって、それだけ効用が少なくなるのである。(pp. 86-88)